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納骨とは?

納骨とは?

ブログ, 樹木葬

納骨ってそもそも遺骨を埋葬するのはどうして行うのでしょうか
もともと先祖代々のお墓があるから?
みんながやってるから?
どうしてなんでしょうか?

その意味をお話しする前にわたしが納骨堂を作った訳はというと、30年も前のことですが、檀家さんから相談を受けました。うちには娘が二人でいずれ嫁に行くからご先祖を守っていけなくなるのでどうしたら良いか悩んでいます。いま自分の両親の遺骨を持っておりお墓を建てるかどうしたら良いでしょうか?

この時点では建宗寺の納骨の選択肢は先祖代々のお墓を建てて納骨することしかありませんでした。
わたしはその時何かお応えできないかを考えました。

たまたま、本堂併設の開山堂の老朽化のため改築案が持ち上がりました。折角改築するなら多目的な空間にしたいと思いました。そこで歴代住職を安置する他に檀信徒の先祖代々を安置しさらに納骨ができるように設計しました。
これが今ある本堂納骨堂となりました。当時はまだお堂の中に遺骨を納めると言うのはあまり聞いたことがありませんでしたが、最初に納骨されたのはご相談を受けた方でした。
納骨されたのはずっと持って悩んでいたご両親の遺骨でした。今はその方もお骨になられ納骨堂に入られています。
そしてご遺族となった娘さんがお参りされています。
因みに建宗寺ではお骨は大地に還すという考え方を守っておりお骨は大地と繋がった土の上に納るように造られています。

さてどうしてお骨はお墓に入れるのでしょうか?
先ほども少し触れましたが儒教の思想と仏教が混ざった概念に基づいています。
そもそも仏教ではお墓という概念は存在しなかったと言われています。仏教がインドから伝わってくる間に中国の儒教思想が交わりお墓つまり埋葬するという習慣が合わさり日本に伝わってきたということになります。

儒教は親への孝の思想を教えるものです。親の遺骨を気が良い場所に埋葬することで子孫に良い徳を巡らすという考え方があります。
https://biz.trans-suite.jp/6914

それ故、理にかなったお墓を建てることで今を生きている子孫が安心した生活を送ることができるという教えに基づいています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 孝


現在の日本でのお墓事情の中にあってもこの思想を踏襲したお墓にしていきたいと考えております。
従って建宗寺の納骨堂も土に還るというコンセプトになっているというわけです。

さて時は過ぎ時代は変わり葬送に対する考え方がおおきく変わりました。
今ではお墓を建てるという考え方も随分変わってきました。
核家族が当たり前になり自分の家を持ってその家からはまだ葬儀を出したことがないというのがほとんどです。
実家には仏壇があってもなかなかお参りできない。
となるとそういう環境で育った子供たちは尚更手を合わせる機会がなく手をあわせることをしないで大きくなる。こういう連鎖が現状を作ってきたのだと思います。
しかし、誰しも両親はいます。その両親にも親はいます。自分が産まれるには2代前から6人のルーツがあります。
わたしはご先祖の法要の時に今貴方がいるにはお爺さんお婆さんまで遡るだけでも6人の方がいます。少なくとも亡くなっていようが生きておられようがちゃんと誰かはわかっておいてください、と。
人が亡くなると葬儀をします。葬送は亡くなった方への感謝を伝えます。つまり残された自分達がそこで区切りをつける儀式です。
家族葬という言葉が流行っていますが葬儀の大きさではなく、その意味を全うするように建宗寺では考えて執り行うようにしております。
さて葬儀の後遺骨になられたご先祖様はどこに行かれるのでしょうか
これには本当に行った方のお話を聞くわけにもいかず、遺骨はただの物で魂は別物という解釈もあるでしょうし、遺骨そのものをイコールとする考え方もあるでしょう。
いずれにしても粗末に扱っていいものでは決してないはずです。
これは日本人として育った文化や生活習慣の中に根付いているもので誰しも同じように持っている感覚で理屈ではありません。
ご遺骨を納める時期は人それぞれでいいと思います。
いずれは土に還していただくのがよろしいかと思います。
https://jumokusou.kensouji.com/


建宗寺の納骨の選択肢は
本堂位牌納骨堂
樹木葬
先祖代々墓

現代のお墓事情に鑑みてご相談させていただきたいと思います。

住職から

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こんにちは。今回は前回の副住職のではなく、住職についてのインタビューをまとめさせていただきました。ぜひ一度読んでみてください。

建宗寺が開かれたのは、大治町史によると平安時代だそうです。そのころから数えると、実に1000年の歴史を刻んでいることになります。私で27代目の住職となり、副住職の息子が28代目を担うことになります。こう言うと、代々親子によって引き継がれてきた寺だと思われるかもしれませんが、そうではありません。私たちの宗派である曹洞宗いわゆる禅宗は、もともと師匠と弟子の間で受け継がれてきました。いまのように、子が親の後を継ぐ形になったのは最近です。私は、歯科医と住職を兼任しています。寺を維持し、生活を守るためには、僧侶のほかに仕事を持つ必要があったため歯医者の一面をもちながらお経を読んで参りました。しかし、振り返ってみると、守り一辺倒で、寺として地域に出ていく積極的な活動はやり切れていなかったと感じています。そこに目を向け、寺の活動を広げる挑戦をしようとしているのが、後継である息子の28代目です。 そもそも、私が寺を受け継いだのは、祖父への恩返しの気持ちがあったからです。祖父は現在の私と同じように、教師をしながら寺の住職を務めるという二足 のわらじを履いていました。本来なら息子、つまり私の父が後継ぎでしたが、寺とはまったく違う道に進んだため、孫の私が後継となったのです。 祖父は、私が大学の歯学部に進学する費用を出してくれました。当時、歯学部は大変な人気で、誰でも行けるところではありませんでした。祖父が教師の仕事で家計とお寺を守ってくれたおかげで、いまの私があるのです。その感謝を、いまでも忘れてはいません。 祖父は、私が修行を終えて寺に戻った3年後、安心したようにこの世を去りました。私が28歳のときでした。私が若くしてお寺を継いだのには、こうした理由があります。 40年近く僧侶をしていると、ご家族の世代交代や時代の変遷などが垣間見えてきます。最近特に思うのは、仏壇のないご家庭が増えたこと。「置く場所がないから」と言って、親族の遺骨を斎場に置いて帰られる人もいると聞きます。 私は思います。こうして私たちが存在しているのは、ご先祖さまがいてくれたからだと。弔いは、それを改めて思い起こすとき。どんな形であれ、生んでもらった感謝を表してほしいと願っています。そのお手伝いを、私たちお寺にさせていただきたいというのが切なる想いです。 仏教には、何十にも及ぶ宗派があります。しかし、もとをたどればみな同じ仏教。宗派を問わず、さまざまな方に来ていただけるお寺でありたい。これから先、どんなに代が変わっていこうとも、皆様の心のよりどころとして、地域に必要とされる建宗寺でありたいと思っています。

いかがでしたでしょうか。実は私だけではなく住職と違う職業をもっている方はたくさんいらっしゃいます。「坊主丸儲け」という言葉があり、一般の方の中にはお寺の人イコールお金を持っていると思われている方がいますが、実際にはお寺以外でも収入を得ているお寺が全体の3割ともいわれており、今は「檀家離れ」、「お墓じまい」など決してお寺の業界は以前と比べても良い状況とは言えないと思います。しかし、だからこそ私たち宗教者は仏教を通して何が出来るか、何を伝えるかを問うべきだと思います。また、お寺をどんな場所にするか今まで以上に考えるべきだと思います。建宗寺としてこれから先、時代の変化でお参りの形や供養の形が変わっても、先祖を敬う気持ち、それを通して今の自分を大切にする気持ちを育てられるような寺院を目指したいと思っています。ぜひお近くを通った際には一度お立ち寄りくださいませ。

副住職から

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こんにちは。先日私と住職のこれまでや想いを専門の方がまとめてくださいました。せっかくなので、ここでもご紹介していきたいと思います。興味ない方も多いとは思いますがお付き合いくださいませ。今回はまず副住職からご紹介していきます。

・なぜ建宗寺を継ぎ、この世界に入ることになったか

私はいま、建宗寺の後継として毎日お勤めに励んで います。「お寺を継ごう」と決意したのは25歳のとき。 何をして生きるかではなく、どんな想いで生きるかが 重要だ、ということに気づいたからです。 建宗寺では、人とペットが同じ場所に眠る「樹木葬」 や、ペットを人と同じように供養する「ペット葬」を行っています。こうした取り組みを行っているのは、 悲しみにくれる方々の〝生きる支え〟になりたいという想いがあるから。死を通して「大切な人といっしょにいられる有り難さ」を感じられる場をつくりたいという情熱が、私を突き動かしています。

・いったい誰のために働くのか

かつて私は、寺とは無縁の生活を送っていました。 小学生のころからスポーツ少年で、大学生の時はハンドボールで全国準優勝を経験。卒業後は人材派遣会社 に就職し、朝から晩まで営業で走り回っていました。 過酷な職場でしたが、仕事自体は楽しいものでした。しかし、なかば強引に人材を紹介する当時の業界体質に疑問を持ち、「いったい誰のために働いているんだろう」と悩むようになりました。どうせ仕事をするなら、自分も相手も喜ばせる仕事に就きたい。そう考えていたとき、父から「寺を継ぐ気はないか」と告げられました。父は、僧侶と歯科医の二足のわらじで建宗寺を支えてきました。その想いがどんなものだったか。そこに気づいたとき、私は父のすごさに感動しました。そして「寺の息子として生まれた自分にしかできないことがある」と考えたのです。

・修行中にあった人生のターニングポイント

私は僧侶となるため、他の寺で半年間修行しました。ところが、それがあまりに厳しく、1週間で逃げ出 したくなりました。そんなある日、母が私の大好物で あるシュークリームを差し入れてくれました。 「いいお母さんですね」。先輩の僧侶にそう言われたとき、涙がこみあげてきました。修行に出る前は、冷蔵 庫にシュークリームがあるのが当たり前でしたが、苦しい修行の場でのシュークリームは、どんな物よりも有り難いものでした。「当たり前だと思っていたことは、当たり前ではないんだ。すべてが有り難いことなんだ」。そんな感謝の念がわき上がってきました。

・お寺の存在する意味

多くの方は「寺は亡き人のためにある場所」と思われているかもしれませんが、私は、お寺は生きている人のためにあると思っています。葬儀後、ご遺族に法 話をしたとき、「良い話を聞けて目の前が明るくなり ました」と言っていただいたことがあります。お経だけでなく、人の心を救う法話が、今を生きる方に必要 だと感じています。 全国にあるお寺は、コンビニよりも多いといわれています。ここが「感謝が芽生えて気持ちがラクになる 場」になれば、多くの人の助けになると思います。心の響く法話を届け、皆様に「ここが必要だ」と思っていただけるよう精進致します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。自分で読んでみても初心を忘れないように日々努めないといけないなと思いました。皆様も自分のエピソードや、大事にしている想い出、言葉たくさんあると思います。人間は忘れてしまう生き物です。一度こうしてなにかにまとめてみたり、思い出す時間を設けてみてはいかがでしょうか。もしかしたら、改めて思い出してみるとそのときに感じたこととは違うことを感じるかもしれません。自分のルーツを知り、今後の人生に生かしてみてください。

大事にしている言葉

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こんにちは。副住職の舟橋憲吾です。今年も早くも3月に突入しました。あたたかくなってきたのはとても嬉しいですが、個人的には花粉症が辛い時期でもあります。さて、本日のテーマですが今回は私が好きな言葉、生きていく上で大事にしている言葉を2つご紹介していきたいと思います。さっそく1つ目ですが、「自未得度先度侘」という言葉です。これだけ聞くととても難しい言葉のように聞こえてしまいますが、意味はわりとシンプルで「自分よりも先に他人に施しをする」というような意味です。では、なぜ他人のために行動するのか、きれいごとではなくこの言葉を実践する理由を表した例えがありますので、想像しながら読んでみてください。目の前に大きな川があり向こう岸には裕福な町、食事や楽しい事、いわゆる理想郷と呼ばれる場所があるとします。当然、誰もが向こう岸に行きたいと望むと思いますが、向こう岸に行くための橋は一本しかなく、また一人ずつしか渡ることができません。自分が渡りたい気持ちを抑えて周りの方にどうぞと譲っていくとどうなるでしょうか。少し考えてみてください。どうなるかというと、譲っていくとこちらの岸には譲り合いの心がある方が残ります。要は、こちらの岸が理想郷になっていたという例えになります。私は初めてこの例えを聞いたとき非常に感銘を受けました。僧侶としてこの例えに一つ補足をするとするならば、「してあげてる」という気持ちではなく、「させてもらっている」という気持ちでこの言葉を実践することだと思います。「してあげてる」と思って行動してしまうと、見返りを求めてしまったり、「私はこんなに頑張っているのに・・・」となってしまいます。逆に、「させてもらっている」と思うと、何事にも感謝しながら行動することが出来ます。とはいえ、なかなかこの気持ちを持ち続けることは簡単ではありません。かくいう私もそのような気持ちで動けないことも多々あります。しかし、この気持ちを持とうとするのが、あるのと、ないのとでは大きな差がありますので是非意識してみてください。私が考えるコツは「してあげてるのに・・」と思ってしまったときは一度深呼吸して今自分がそのような精神状態であることを自覚すると良いと思います。では、2つ目の言葉です。板橋興宗禅師が残された、「猫を叱る前に魚をおくな」という言葉です。こちらも私が生きていく上で大事にしている言葉の一つです。生きているとさまざまなイライラ、不条理と感じること、思い通りにならないことがたくさんあります。すべてのものには、「結果」だけではなく「原因」が存在します。まずは、原因に目を向けることをしてみてください。原因を考えたときに自分に何かできることがあるはずです。猫が全部悪いのではなく、猫がとれるような場所に魚を置いた自分に問題はないでしょうか。そんなときに、「だれだれのせいで」、「あの人は気に入らない」という発想ではなく、自分がもっとこうすればよかったという発想で生きることができればイライラや怒りの感情は劇的に減ります。しかし、これも実践することは簡単ではないと思います。ですので、こちらもコツをお伝えします。コツは先程の言葉のときと似ていますが、イライラした感情に自分がなったときにこの言葉を思い出すことです。この言葉を知っておくこと、考え方が少し頭にあるだけでも違うと思います。そして、もう一つは、「他人は自分ではない」ということを認識することです。例えば、車を運転していて割り込み運転をされたとき、「この人はもしかしたら出産間近の奥さんのもとに急いでいるのかもしれない」などちょっとその方のことを想像するだけで怒りは減りませんか?考え方ひとつで感じ方は変わります。ぜひ実践してみてください。今回は、私が大事にしている言葉を紹介しました。宗教は、「どう生きるか」を伝えるものでもあります。ぜひ興味のある方はそんなことも含めて触れてみてください。ありがとうございました。

四十九日法要の意味

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こんにちは。今週はよく聞く四十九日についてお話しをさせていただきます。あまりなじみのない方も多いとは思いますが、実は四十九日の法要だけではなく、そこに至るまでの間、七日毎にも法要があります。では、それぞれどんな意味があるのか。法要の名前も含めてご説明していきます。最初の初七日を「初願忌」といい、「故人の恩に報いるため、残された私たちで仏の教えに努めよう」という誓いの時期になります。その後の二七日を「以芳忌」といいます。芳という字は故人の生前の素晴らしい行いや積まれた徳を表していて「故人の今生の良い面を引き継く」という誓いになります。三七日は「洒水忌」といいます。水で洗い清めるという意味です。「もっとああしておけば、どうして死んでしまったのか、後悔の残らないように洒水をする戒めのタイミングになります。四七日は「阿経忌」といいます。阿とは従うということです。仏の教えに従うという誓いです。五七日は「小練忌」といいます。練とは気持ちの整理の度合いを表しています。故人の死を深く背負い続けるのではなく、すべての命が死を迎えることをきちんと理解をしましょうという教えになります。六七日は「檀弘忌」といいます。檀は施しのこと、弘は広くという意味になります。故人の死から教えてもらったことを踏まえ、多くの人に「人の悲しみがわかり、優しい人間であれるように」という誓いです。最後の七七日、四十九日と同じときですが、「大練忌」といいます。しっかりと気持ちの整理がつき、忌明けを迎えた旅立つ故人に感謝で送る日になります。また、百か日、約三か月ちょっとのタイミングを「卒哭忌」といいます。卒は終える、哭は声をあげて泣くということです。百か日には声をあげて泣くことを終えて、故人の為、自分の為に人生をよく生きてください」という日です。それぞれざっくりご説明させていただきました。難しく感じる供養の名前も多いと思います。今ではこの法要を七日毎に行う家庭もかなり減りました。しかし、忘れないで欲しいこと大事にして欲しいことは、中身を理解することで故人、自分とどう向き合うかだと思います。時代がいくら変わっても「自分」という存在が父親、母親、おじいちゃん、おばあちゃんとつないでもらって今があること。「人間」という存在が他の生物からエネルギーを頂きこの環境で共存していることは変わりません。故人も生前、生きていることが「当たり前」の存在であったと思います。そんな当たり前が死を迎え今日という日を迎えています。「今」という時間、「当たり前」を「当たり前」と思わず感謝や施しの精神をもてるか。四十九日までに至るまでには、そこに気付き故人への想いを表現するプロセスがあります。それは決して故人の為だけではありません。皆さんの中にもお気づきの方がいらっしゃると思いますが、上記で挙げた供養の名前、意味は「故人」に向けたものではなく、今生きている「私たち」に向けた、教えであったり、心構えであったり、悲しみを和らげるものです。供養を通して、何を感じ、どう人生に生かすかというのがとても重要です。「供養」や「葬儀」の時間は日常の当たり前の時間の尊さが浮き彫りになるタイミングです。残された皆様にとってそんな当たり前に気付けたとき今までとは違った景色が見えると思います。隣にいてくれる方、日々食べる食事、何気なく使っている携帯電話など。そんな一つ一つのものから感謝出来るようになると毎日が晴れやかな気持ちで過ごすことが出来ます。故人から教えてもらった今という尊さに気付き改めて身の回りの方に「ありがとう」と伝えましょう。毎日の「ありがとう」が増え、気持ちの良い毎日をお過ごしください。

副住職のこの世界に入った理由と思い

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こんにちは。本日は私の想いについてお話しさせていただきます。まずは、僕がどのような成り行きで僧侶の道へ進むことになったのかお伝えします。僕は、現住職である父の長男として建宗寺で育てていただきました。学生の頃は恥ずかしながらお寺のお手伝いなどはしておらず部活動に打ち込む毎日を送っておりました。大学まで部活動中心の学生生活を送った後、一般企業に就職しました。3年弱その企業で働かせてもらいました。その企業では、社会人として礼節や常識など多くのことを学ばせていただきました。また、そこでは毎年多くの社員が入ると同時に、多くの社員が辞めていく様子をみてきました。そんななかで父から、「そろそろお寺を継ぐ気はないか」とお話しをもらいました。それまでの自分は「いつかこの世界に入るだろうな」くらいの考え方で、正直なところ具体的にいつ入るか、会社をいつ辞めるかなどはっきりと決めてはいませんでした。しかし、そんなふうに人が去っていく様子を見てきた僕にとって長男というだけで檀家さんや住職から自分という存在を求められることがとてもありがたいことのように感じることができ、退職する意思と、この世界に入る決断をしました。しかしながら、そんな僕を待っていたのは当然のごとく厳しい修行でした。修行に入る前の僕は着物を着ることもできない、お経の一つも覚えていない、好き嫌いは多い、この世界の常識や作法などちんぷんかんぷん。そんな状態であったため修行は決して楽なものではありませんでした。修行中は当然、食事の自由や携帯電話、友人との交流など今まで当たり前であったものが一気になくなりました。食事の最中やトイレ、寝る場所では三黙道場といい、言葉を発することを許されていません。修行に入った日には、自分より目上の方と目を合わせないようにとも教わりました。また、四時半におき、坐禅をし、朝のおつとめをし、粥を食べ、作務(掃除)など決められた流れで毎日を過ごします。こんな今までの自分の生活とかけ離れた環境に身を置かせてもらいました。しかし修行を終えて家に戻るとき自分の中に変化があることにすぐ気づきました。修行中の僕には気付くことが出来ませんでしたが、毎日のように食べていた母親の料理のあまりの美味しさや友人といつでも連絡がとれること、家族と過ごすことはこんなに尊いことであったということです。よくよく考えてみると、それらすべては今までに「ないもの」ではなく、「あるもの」です。車が欲しい、立派な家に住みたいなどではなく、「今あるものの中に幸せ」を見つけることができたのは修行という経験があったからにほかなりません。また先程あげた三黙道場では言葉を発せないと申し上げましたが、この3つの道場は生活の基本となる空間です。この空間をおろそかにせず、今自分がしていることのありがたさを身にしみこませるという意味で言葉を発せず、ただその時間に集中をするという意味合いがあるのかなと感じました。そんな経験ができてからというものの、何気ない毎日の出来事がとても充実した気持ちで過ごすことができています。諸行無常、移り行く日々で今を大事にする尊さが学べたからです。こんな経験を通して、私が僧侶としての一番の想いとしては「どう生きるかで感じ方が変わり、なにか目に見える変化がなくても見える景色は変わる」ということを宗教者として伝えていきたいと思います。お釈迦様の時代から考えると仏教は大きく形を変えました。お経、供養が生まれ、お墓が普及し、檀家制度が誕生しました。しかし、形は変わっても仏教の本質は変わりません。「今」という尊さを伝える存在が僧侶であると思っています。そのために、供養やお墓参りを通してご先祖様に感謝をし、食事や睡眠の時間など日々の何気ない時間のありがたさを伝えることを僧侶として大事にしていきます。

新年の抱負と目標を立てる意味

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こんにちは。新年があけましたが、みなさんは今年の目標や抱負は決めましたか?私の今年の目標は「おもてなし(表無し)の心で日々精進する」です。僕らの世界のことで説明すると、「檀家さんがいるからお経をしっかり読む」、「みてないから手を抜く」ではなく誰かが見てる、見ていない関係なく、裏表なく今自分に出来ることを精一杯取り組んでいきます。当たり前のことのように感じると思いますが、以外と難しいことだと思います。きれいごとに聞こえる方もいると思います。ですが、仮に誰も見ていなくても自分自身はいつも自分を見ています。そのときの自分は許しても未来の自分が納得するとは限りません。あのときもっとこうしておけばよかったなど後で後悔しないように今年はより一層意識して「今」を大事にして行動していけたらなと思います。みなさんにもぜひ目標をたてていただきたいなと思います。大きい、小さい、ジャンルはなんでも構いません。目標や夢というのは道しるべのようなものです。仏教では、「一切皆苦」(人生は思い通りにならず、多くの困難がある)ことを知ることが大事とされています。苦しみというと多少言葉が重いような気もしますが、この苦しみに合ったときにどう向き合い、どう乗り越えるか。その乗り越え方の一つに目標や夢があります。自分の中で大事にできる目標が定まっていたら、仮に困難な状況に合ったとしても、こう生きよう、これを目指そうと頑張れると思います。ですので、目標をたて自分自身の道しるべを作ってください。また、せっかくなので、もう一つ悲しみや苦しみの乗り越え方もお伝えします。一度考えてみてください。「悲しみ」、「苦しみ」ってなんだと思いますか?また、どう作られていると思いますか?答えは、「自分の心」が感じ、作っているものです。職場や人間関係でうまくいかなかったときに「あいつは嫌なやつだ」、車を運転していて割り込み運転をされて「危ないな、ばかやろう!」、したくないことをしなくてはならない状況のときに「やだなあ」これらすべての感情は自分の心が作っています。逆に言えば、自分の心のもちようでマイナスの感情はプラスに変わります。私自身、そのことに修行を通して教わりました。修行の時間は食事のときには無言で、野菜中心のものをいただき、当然携帯電話や電化製品はなく、冬でも基本的には靴下もはけない時間もあります。恥ずかしい話ですがその時間を過ごしているときの自分は、そのことをストレスに感じて、何度も逃げ出したいと思ってしまっていました。しかし、修行をおえて、実家に戻って母の手料理を食べたときに涙が出るくらい美味しかったのを今でも忘れません。久しぶりにとる友人との連絡もとても幸せなものでした。そのとき、「なにかを得るから幸せ」ではなく、「今、周りにあるものの尊さに気付くだけでこんなにも幸せになれる」ということを教わりました。日々の中で感じるストレスも捉え方次第ではないでしょうか。仕事でうまくいかなかったときに「仕事をさせてもらっていることがありがたい」、運転が危ない方に出会ったときに、「急いでいるなら自分から譲ろう」、したくないことも、「自分の成長につながる」、「とにかく何でもやってみよう!」など、そう考える自分を作ることが出来たとき日々のストレスは劇的に減ります。私の思うコツは、自分がイライラ、悲しいと思うことがあったときに自分が「その感情」を抱いていることをまず自覚してみることです。「あれ今イライラしてるぞ」と気付けば、なんでこんなことにイライラしてるのかな、くだらないことに腹をたててもしょうがないなと自分自身に言い聞かせることができると思うので一度ぜひやってみてください。昨年は、コロナという大変な時代を迎えました。だからこそ、気付けることもたくさんあります。どう生きるか、なにを大事にするか新年の始まりのいいタイミングですのでゆっくり考えてみてください。遅れましたが、本年もどうぞ宜しくお願い致します。

ペット葬儀は飼い主のため?

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こんにちは。今日は私がいつもペット葬儀のために建宗寺まで来てくださったときによくお話しをすることをお伝えさせていただきます。「ペット葬儀」だけではもちろんなく「供養」というものはもちろん大事な家族の一員であったペットや、家族や友人といった故人様をお見送りする大切な儀式です。そしてそれと同時に残された方にとっても尊いお時間でもあります。私たちのもとに来て下さる飼い主様の多くは涙を流されます。来てくださった後も突然さみしくなってしまったとご連絡をくださる方も中にはいらっしゃいます。それだけ、大きな存在であったペットや家族が亡くなったときの悲しみは並大抵のものではないと思います。それを、自分自身が後悔なく「見送ることができた」と思う供養を受けることが出来たら悲しみも少しは落ち着くのではないでしょうか。また、供養の時間は決してネガティブだけのものではありません。家族で故人様、ペットを囲み想い出話に花を咲かせる幸せなひと時でもあります。ぜひ、ペット葬儀の際には「ありがとう」などの感謝の言葉をかけてあげてください。仏教の言葉からも少しお話しをさせていただきます。皆様も一度はお聞きしたことがあると思いますが、「諸行無常」という言葉があります。簡単にご説明させていただくと「この世に存在するすべてのもの、事は同じ状態ではなく移り変わり、永遠に同じなものはなにもない」というような意味合いの言葉です。お釈迦様が残した言葉とされており、仏教のおおもと、大事な考えの3つの言葉である三法印の1つでもあります。諸行無常の意味を聞くと当たり前じゃないかと思う方もいるかもしれません。しかしながら、日常から「世の中は無常だな」と感じながら生きている方は少ないのかなという印象をもっています。供養の時間、葬儀の時間というのは違います。「死」というものが間近に感じる時間であるからこそ、この「諸行無常」を感じることが出来ます。この無常というものを感じることが出来たとき、今自分が生かされていることのありがたさ、周りの方がいて、支えてくださること、食事や今ある生活は決して当たり前ではないこと肌で実感することが出来ます。それにより「死」を通して「生」がより尊い方へ導かれるでのないか、供養はそのためのお時間でもあるとおもっています。ですので、タイトルにもある通り「ペット葬儀」は飼い主様のためでもあるということです。基本的には、仏教に限らず、宗教というのは「どう生きるか」を説いた学問のようなものです。供養を通して教えの部分にも触れていただけたら、より特別なお時間になると思います。また今後も仏教のお話しもさせて頂きます。先程ご紹介させていただいた三法印の別の言葉もご紹介しますのでよかったら読んでみてください。実は私自身、この世界に入らせていただくまで恥ずかしいことではありますが、全く宗教というものに興味がありませんでした。学生の頃からお寺の手伝いなどはしておらず、修行に入るまで無縁の状態でしたが、修行に行き仏教に触れてからというもの毎日を充実した気持ちで迎えることができています。本当に紙もペンもない紀元前から令和になった今でも教えが残っているという現実が物語っているようにものすごく大きな力があると思います。もしかしたら私自身が一番仏教に救われた人間なのかもしれません。ですので、ペット供養におみえになった方、もちろん大事な家族の場合でも同様ですが、お経だけではなく、仏教の教えの部分も伝え、なにか感じていただけるよう精進して参ります。少し話がそれてしまいましたが、そんな教えも含めて供養というお時間を飼い主様にとってもより特別で尊いお時間になることを祈っております。

僧侶紹介

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曹洞宗 建宗寺 二十七代目 舟橋正樹(ふなはししょうじゅ)と申します。

建宗寺は元々檀家制度だけで成り立つ寺院ではなかったですので、先代は愛知高校の教師をしておりました。私も歯科医と住職の2足の草鞋を履いておりまして、住職暦は30年になります。

生まれてからずっとこの地で育ち、子供の頃から祖父に住職の道を引かれていたように思います。

私の基因は二十五代曾祖父から受け継いでおり、尽くすことが命題になっております。祖父が二十六代目になります。

祖父の後を継ぎお寺を守ってきました。これからお寺経営が益々困難な時代になりますが、建宗寺では跡取りを育て、お寺が受け継がれていくように伽藍の整備をしました。

副住職 舟橋憲吾
こんにちは。建宗寺僧侶の舟橋憲吾(ふなはしけんご)と申します。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は monks02.png です
私は長男として育ちましたが、学生の頃は部活動に熱中しており、大学卒業までお寺のお手伝いなどは全くしておりませんでした。

その頃は、自分が将来住職になるということなどは考えておらず、大学卒業後も営業職として一般企業に就職しました。

就職し働いて初めて、父が歯科医と住職として長年勤めてきたことの偉大さを理解することができ、私自分もお寺を守っていく決意をしました。

その後、覚王山にある日泰寺にて修行を積み重ねました。今までと全く違う世界で戸惑いもありましたが、私にとって日泰寺での経験はとても大事な財産になりました。

またこの世界に入ることで、「宗教で、もっと多くの人の気持ちを楽にできる」と実感じました。しかし、現状は「お寺離れ」、「墓じまい」など、お寺や宗教を取り巻く環境は良いとは言えません。「お寺は敷居が高い」と思われている方も、多くいると思います。私はそこをなんとかしたい、と考えました。

そこで住職と話しをし、「樹木葬」や「ペット葬儀」、「本堂葬儀」など時代の変化に合わせ、今の時代のニーズや、皆様の想いに応えられる形の供養を形にするために日々研鑽しております。

また、お墓参りに家族で行きたい!と思ってもらえるよう、様々な企画を今後も展開していきたいと考えております。

お祭りなど、地域のお子さんやご家族が楽しめる活動なども始めます。皆様の中には、供養ってなに?必要なの?どんな葬儀が正しいの?など、分からないことや不明がことが多いと思います。そんな疑問を払しょくし、お寺と地域との距離をも一度近づけて親しみやすい、近づきやすい場を作ってまいります。

建宗寺では、皆様に納得し理解し後悔のない供養が出来るよう、日々精進おります。私はお寺が出来ることは何かを追求し、多くの方に寄り添うことが出来たら、とても幸せに思います。

諸行無常

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この言葉は、「永遠に同じなものは何もない」と簡単に説明するとこのような意味になります。皆様は日常の中で、無常だなと感じることはありますか?
この言葉の意味を感じることは少ないように感じます。しかし、供養の時間、葬儀の時間は違います。人生の中で、「死」というものを大きく感じる局面です。そのとき、「諸行無常」であることを感じてもらうことが私たちの大きな役目であると思っています。その時間の中で、無常を感じれたとき、「自分が生かされていること」、「いろいろな方が自分の周りにいてくださること」、もっと言えば、食事や仕事も当たり前でないこと。これを感じることで身の回りのことを有難いと思える自分に出会えたとしたならば今ある「生」が「死」という局面でより尊い方へ導けるのではないかと思っております。そんな供養のお時間になるよう建宗寺では、皆様に寄り添えるよう精進して参ります。

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