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建宗寺ブログ

今週の樹木葬の進捗状況

樹木葬

今週の工事の進捗

7月の頭から始まった樹木葬 おおはる庭園の工事の8月1日時点の写真です。樹木葬の通路はだんだんと完成に近づいております。今年は雨の影響も大きく若干遅れは出ていますが順調に進んでいるみたいです。お花がないとちょっと寂しいですね。

葬儀はなぜ執り行うのか?

お寺葬儀

葬儀はなぜ行うのでしょうか。私たちの宗派でいうと大きく分けて2つあります。1つ目は別れを行う告別式。もう1つがお釈迦様のお弟子になる授戒と、引導法語を行う仏教としての儀式です。もともとは告別式と葬式は別のものでしたが、現在では一緒に行うことの方が一般的です。お釈迦様のお弟子になるためのお名前がいわゆる戒名です。引導法語とは、この世からあの世に引き渡しを行う儀式です。お葬式というのは大きくいうとこの要素で出来ています。当然僕らもこの儀式にはお坊さんとしてよく立ち会わせて頂いています。そのたびに僕自身も感じ、教えて頂くことがあります。仏教のなかの大事な教えの一つに「諸法無我」という言葉があります。「すべての物事はお互いに影響をおよぼしあっていて独立して存在するものはない」とこんな意味です。もちろん人は一人では生きていけないですし、今この自分という存在も地球の歴史の中で様々な奇跡の上で成り立っているということは間違いなく言えるでしょう。独立して存在できないものはそのようなつながりだけでなく、目に見えないもの、難しく言うと「概念」にも言えます。それは、「死」にも通じます。死という概念も「生」という概念があり初めて存在します。死というものは多くの悲しみ、苦しみのイメージが強いと思います。その反面、死というものは今こうして自分が存在していることの尊さ、ありがたさに気付くタイミングでもあると思います。私は葬儀は故人のためだけのものとは思っていません。仏教は言い換えると幸せの教えです。供養を通して故人には安心とや安らぎを、遺族の方にはありがとうを通して幸せになってもらう時間です。死を表す言葉に「息を引き取る」という言葉があります。これはお亡くなりになる際は息を吸うときに亡くなることからきているみたいです。あと一つ今日ご縁があって来て下さった方々が志、想いを引きとる、引き継いでいく意味でもあります。皆さんで故人の想いを引き継いで守ってくださることを祈って私からのお話とさせて頂きます。

ないものを求めるより、あるものを数えよう

ブログ

本日は一言法話をお届けしたいと思います。最近コロナウイルスの第二波が世界中を混乱に陥れています。こんなときだからこそ気付けることってたくさんあると思います。今日の言葉はそんな想いをもって決めました。普段、日常を過ごしていると、「いい車に乗りたい」、「将来、あんな家に住みたい」、「もっとお金が欲しい」こんな会話をすることありますよね。これは「今、自分にないもの」に対しての会話です。しかし、それの逆「今、あるもの」の会話はなかなか聞くことはないような気がしています。もちろん、なかったものを手に入れる、これも1つの「幸せの形」だと思います。しかし、それと同時に今あるものに気付くことも「幸せの形」です。また、この幸せの形は「ありがとう」も作ります。毎日、食事がたべられること「ありがとう」、あたたかいお風呂、シャワーがあること「ありがとう」、今元気に働けること「ありがとう」。僕はこう考えています。「なにかあるから幸せ」なのではなく「自分が幸せなことに気付くことが出来るから幸せ」であると。この考え方を仏教から学んで以来、身の回りのもの、日常のあらゆる場面に多くの幸せが隠れていることがわかりました。考え方、見るもので、日常は驚くほど景色を変えます。コロナウイルスは、もしかしたら僕たちが忘れかけている、そんな日常の尊さを伝えようとしているのかもしれません。こんな時期だからこそ、「ないもの」ではなく「あるもの」に目をむける力を身につけるきっかけになればと思っています。

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