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副住職のこの世界に入った理由と思い

副住職のこの世界に入った理由と思い

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こんにちは。本日は私の想いについてお話しさせていただきます。まずは、僕がどのような成り行きで僧侶の道へ進むことになったのかお伝えします。僕は、現住職である父の長男として建宗寺で育てていただきました。学生の頃は恥ずかしながらお寺のお手伝いなどはしておらず部活動に打ち込む毎日を送っておりました。大学まで部活動中心の学生生活を送った後、一般企業に就職しました。3年弱その企業で働かせてもらいました。その企業では、社会人として礼節や常識など多くのことを学ばせていただきました。また、そこでは毎年多くの社員が入ると同時に、多くの社員が辞めていく様子をみてきました。そんななかで父から、「そろそろお寺を継ぐ気はないか」とお話しをもらいました。それまでの自分は「いつかこの世界に入るだろうな」くらいの考え方で、正直なところ具体的にいつ入るか、会社をいつ辞めるかなどはっきりと決めてはいませんでした。しかし、そんなふうに人が去っていく様子を見てきた僕にとって長男というだけで檀家さんや住職から自分という存在を求められることがとてもありがたいことのように感じることができ、退職する意思と、この世界に入る決断をしました。しかしながら、そんな僕を待っていたのは当然のごとく厳しい修行でした。修行に入る前の僕は着物を着ることもできない、お経の一つも覚えていない、好き嫌いは多い、この世界の常識や作法などちんぷんかんぷん。そんな状態であったため修行は決して楽なものではありませんでした。修行中は当然、食事の自由や携帯電話、友人との交流など今まで当たり前であったものが一気になくなりました。食事の最中やトイレ、寝る場所では三黙道場といい、言葉を発することを許されていません。修行に入った日には、自分より目上の方と目を合わせないようにとも教わりました。また、四時半におき、坐禅をし、朝のおつとめをし、粥を食べ、作務(掃除)など決められた流れで毎日を過ごします。こんな今までの自分の生活とかけ離れた環境に身を置かせてもらいました。しかし修行を終えて家に戻るとき自分の中に変化があることにすぐ気づきました。修行中の僕には気付くことが出来ませんでしたが、毎日のように食べていた母親の料理のあまりの美味しさや友人といつでも連絡がとれること、家族と過ごすことはこんなに尊いことであったということです。よくよく考えてみると、それらすべては今までに「ないもの」ではなく、「あるもの」です。車が欲しい、立派な家に住みたいなどではなく、「今あるものの中に幸せ」を見つけることができたのは修行という経験があったからにほかなりません。また先程あげた三黙道場では言葉を発せないと申し上げましたが、この3つの道場は生活の基本となる空間です。この空間をおろそかにせず、今自分がしていることのありがたさを身にしみこませるという意味で言葉を発せず、ただその時間に集中をするという意味合いがあるのかなと感じました。そんな経験ができてからというものの、何気ない毎日の出来事がとても充実した気持ちで過ごすことができています。諸行無常、移り行く日々で今を大事にする尊さが学べたからです。こんな経験を通して、私が僧侶としての一番の想いとしては「どう生きるかで感じ方が変わり、なにか目に見える変化がなくても見える景色は変わる」ということを宗教者として伝えていきたいと思います。お釈迦様の時代から考えると仏教は大きく形を変えました。お経、供養が生まれ、お墓が普及し、檀家制度が誕生しました。しかし、形は変わっても仏教の本質は変わりません。「今」という尊さを伝える存在が僧侶であると思っています。そのために、供養やお墓参りを通してご先祖様に感謝をし、食事や睡眠の時間など日々の何気ない時間のありがたさを伝えることを僧侶として大事にしていきます。